夜光貝その他の貝類を彫刻して漆地や木地などにはめこむ技法です。
「螺」は螺旋状の殻を持つ貝類のことであり、「鈿」は金属や貝による飾りを意味しています。又貝の裏面に着色または金銀箔を裏付けして使用したものを、色底螺鈿とよんでいます。
螺鈿の起源はまだ明らかではありませんが、この技法は近東に起こり、のち中国に入り唐時代には精巧な技術に発展し、日本に渡ってきたと考えられます。
螺鈿には厚貝と薄貝があり、厚貝は乳白色を基調とした真珠光沢の色調を主とするのに対し、薄貝は膜層により青から赤までの変化があります。歴史的には厚貝から薄貝へと進んできましたが、螺鈿が青貝ともいわれるようになったのは、薄貝によって青い色調が出せるようになったからでしょう。


螺鈿の材料

 螺鈿の材料には次のようなものがあります。
 夜光貝(産地:沖縄方面)・白蝶貝・黒蝶貝(産地:アラフラ海、南洋方面)・あわび貝(産地:日本)・珊瑚・象牙・玳瑁※(たいまい)・金・銀・宝石類・その他
貝の厚みは、厚貝は0.4mm~1mm 薄貝は0.09mm~0.3mmです。

夜光貝あわび貝

※玳瑁(たいまい) 海産のカメ。甲長90センチメートルほど。主に熱帯・亜熱帯に分布するが、個体数が減少。背甲は黄色と黒色の鼈甲(べつこう)色で、高級細工物の材料とするが、ワシントン条約で商取引が禁止されている。高岡漆器の螺鈿に使われている材料は、おもにあわび貝で他に夜光貝・蝶貝を使用しています。又厚貝は0.4mm薄貝は0.09mmの物を使用しています。

高岡漆器について

高岡漆器の起こり
 高岡漆器の発生は、慶長14年~19年(1609~1614)に新川郡大場村から移って来た大場庄左衛門によって起こされたと言われています。漆器産地の起こりについては二つの経路が有り、一つは大名の仕事をしていた職人達より発生した産地でありもう一つの産地の発生は、町人の文化から発生した産地です。高岡漆器の場合は、後者の方であり箪笥・長持・針箱・膳・など日用家具を作りこれを赤物と言っていました。
高岡における螺鈿漆器

幕末から明治にかけて成長した勇助塗り・錆絵は、ともに錆絵・彩漆・青貝等の材料をたくみに生かした独特の技法でありました。高岡螺鈿にはこのような環境・基盤の中にあった工人達が地方から移入される唐漆器と呼ばれた茶棚・器局・床卓などをも模して作ったのが始まりであり、更に、意匠・技法に改良を重ねて高岡風の螺鈿漆器を作り上げたのです。
明治期に立野太平治の作る青貝加飾による茶棚などが好評となり、続いて石瀬松次郎なども青貝加飾による漆器を始めたのが基であります。
その頃の技術は薄貝を裁つ切ることが中心で貝は直線によるものが多く、線・短冊・三角・四角等の細片を組合わせて模様を表現したものが多かった。明治末期になって石瀬松次郎は、自由な絵画風の線・形の表現に意を注ぎ、人物・花鳥を繊細に切り抜き、更に衣服・鳥の羽根までも針彫りして世の人を驚かせました。また武蔵川達雄・篠原金次郎等は更に金箔・彩色等を加味した繊細華麗な青貝技術を研究して高岡螺鈿の名声を高めました。